食べ物と汽車が好きな人のための書評

名作の中の食べ物、作家が好きな食べ物と旅を追って、本の森を歩こう

中落合 中太郎
(C)Chutaro.Nakaochiai
ねぎ−鳥居強右衛門(新書太閤記・吉川英治)
JUGEMテーマ:グルメ

本編は2007年9月25日に発表したものに加筆修正したものです。

<太閤記−秀吉の好物>

 このブログを読まれる方で、1965年(昭和40年)1月3日から12月26日まで放送されたNHK大河ドラマ『太閤記』(原作:『新書太閤記』吉川英治、脚本:茂木草介、演出:吉田直哉、主演:緒方拳)を記憶している方がどれくらいあるか?

何分、昔のことで覚えているシーンは少ないのだが中太郎の記憶に残るものが二つある。

<緒方秀吉とフキノトウ>

一つは、すでに天下人で、大坂城にある秀吉の前にフキノトウの椀が出される。懐かしさのあまり、喜んでぱくつく。

それは太閤というより尾張中村の百姓のすがたであった。
あまり無造作に食べるので北政所となったねね(藤村志保)がたしなめる。

「そのフキノトウは、大政所様(ナカ:浪花千栄子)が自ら、摘まれたものなのですよ」

それを聞くと秀吉の箸が止まる。
そして、雪の降りしきる中、年老いた秀吉の母がフキノトウを探すシーンが映しだされる。

続いて、涙でくしゃくしゃになった秀吉の顔が大写しになる。私たちが秀吉を好きなのはこういうところだろう。

晩年、これが同一人物と思えぬほど残虐で無慈悲な支配者になってしまった彼であるが、その庶民性やそれを隠さないところに私は親しみを持つ。

やっぱりオッカアにはかなわない、という秀吉の優しさにほっとするのである。

<竹中秀吉のかきもち>

秀吉は何度も主役、脇役として大河ドラマを飾る。1990年(平成2年)に放送された「秀吉」では竹中直人の横チンが話題となる。

北政所おねを沢口靖子、大政所は市原悦子が演じた。このドラマでの尾張弁丸出しの秀吉のお袋の味として「かきもち」が何度も登場する。
新書太閤記〈5〉 (吉川英治歴史時代文庫)
新書太閤記〈5〉 (吉川英治歴史時代文庫)

<長篠の戦いと鳥居強右衛門>

今回はネギである。そのネギにまつわる人物は秀吉でも信長でもない。
実はこの稿を起こすまでその人物が誰か私は知らなかった。

鳥居強右衛門(とりい すねえもん)という。しかし、このネギと一椀の粥。

そしてはりつけになった鳥居強右衛門の白黒の画面が今も目に浮かぶ。

と、同時に記憶違いを告白する。私はずっと、ネギではなくそれは一本の葉生姜(谷中生姜)であると思っていた。

原作は吉川英治の「新書太閤記」であるが、今回はあくまで大河ドラマ(当時はそういう呼び方はなかった)の『太閤記』の感想として書いている。

時は長篠の戦い(1575年・天正3年5月)の緒戦。長篠城の守将、奥平貞昌と五百の兵は武田勝頼の大軍に包囲される。貞昌は岡崎城にいる主人の徳川家康に援軍を要請するため決死の士を求める。

(16世紀の36歳は老兵だが)

それに鳥居強右衛門は志願した。36歳であった。強右衛門はいわゆる雑兵できわめて身分が低いが彼は武田軍の囲みをぬけて岡崎城にいる家康に貞昌の書状を届けることが出来た。

「帰るな」、という家康の言葉に抗して復命のため、人夫に化けて再び長篠城に戻るところを武田兵に見つかり勝頼の前に引き出される。

尋問に対して貞昌の臣であること、家康に援軍を頼んで聞き入れてもらったこと、すべて、すらすらと答えてしまう。

そして、勝頼が帰城を命じた家康を「無慈悲」となじったので自ら帰城を申し出たというと、勝頼は強右衛門の忠義に感じ入り、「助命するだけでなく直参として取り立てる。

ついては、『徳川の援軍は来ない。それより、武田軍に降伏せよ』と長篠城の将兵に告げよ」と提案する。強右衛門は思いもよらない出世話に
「喜んでそうする」と約束する。

<強右衛門最後の食事―白ネギと粥>

 勝頼の陣で一夜を過ごした強右衛門は、重臣穴山梅雪の指図で朝飯を供される。
以下、『新書太閤記第5巻』講談社吉川英治歴史時代小説文庫145ページより引用。

「郎党は、すぐ彼の前にそれを運んで来た。一個の梅干と、一茎の葱の白根に味噌を添えたものである。強右衛門は美味そうに粥を二杯まですすった」

このシーンが私の目にありありと浮かぶ。かわらけに盛られた粥と皿にのったネギと梅干。ようするに現代でいうエシャレット(フランスのエシャロットではない)だ。

私にはそれが葉生姜に見えた。梅干は記憶にない。かわらけではなく木をくりぬいただけの椀だったかもしれない。

 朝飯を喫した強右衛門は十字架状のはりつけ柱にしばられて長篠城に向かって高々と掲げられた。

強右衛門は、口を開くや勝頼との約束を破り、織田・徳川軍は陸続として長篠に救援に向かいつつある。もう少しの辛抱だ、と叫ぶ。

強右衛門は怒った武田兵に槍で散々に刺され絶命するのであるが、やがて、武田方も敵ながら忠義の士と褒める、という話である。

<強右衛門の食べたネギ>

 ともかくネギである。中太郎は二つの疑問を持った。

…梗直襪里△辰唇γ慮新城市あたりで食べられたネギはどんなネギだったのだろう。

中太郎は関東以外に住んだことがないので深谷ネギのような白味の多いネギを想像する。関西なら青ネギ。関西のうどんの薬味の緑色の細いネギを思い浮かべる。

▲優といえば冬の季語になっているようだが旧暦5月にあったのか?今でこそ一年中食べられるネギだが16世紀の三河地方に夏ネギがあったのか?

やっぱりあれは葉生姜の方が適当ではないか?

千葉大学園芸学部教授であられた故青葉高博士の著書『野菜の博物誌−青葉高著作選掘挌坂書房84ページによると関東地方を中心に東日本は根深ネギ、

関西から西日本には葉ネギが多く、中間の愛知県では両群の中間型の越津ネギを栽培しているという。

さらに詳しくみると東愛知の旧三河では千住系の根深ネギ、西愛知の旧尾張では中間型の越津(こしづ)ネギを栽培している、とのことである。

これは現代の話ではあるが辛うじてあの画面にあったような根深ネギ、東京ネギの白いところが一本、皿に載っていても不思議ではなさそうである。

三河の家康は関東系の根深ネギを尾張の信長、秀吉は中間型の越津ネギか関西系の青ネギと別系統のネギを食っていたのだろうか?

根深ネギは華北から青ネギは華南からとその渡来経路もまったく違う、と青葉博士は述べている。

それから疑問の◆イ修里海蹈優が摂れたか?

<当時も5月ころにネギがとれた>

同じく青葉博士の『野菜の日本史−青葉高著作選供戮砲茲譴弌伊予宇和島の武将土井清良(1629没)の一代記『清良記』の第7巻「親民鑑月集」(清良の家臣、松浦貞家が領内の農業振興について上申した書物)という書物に

ネギを食する季節は1月から5月及9,10月である、と記されているという。伊予と三河では離れてはいるが旧暦5月にネギは採れても不自然ではなかったということか。
野菜の日本史 (青葉高著作選)
野菜の日本史 (青葉高著作選)

<ドラマ『太閤記』についてはWikipediaを、鳥居強右衛門についてはWikipedia並びに『長篠設楽原の戦い』愛知県新城市のWEBページを参考にしました。>
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